洋楽と脳の不思議ワールド

60年代のマイナーなビート・バンド紹介と駄洒落記事、書評に写真がメインのブログです。

挫折の人生の何が悪い(開き直り)・・・The Slickee Boys

小学生時代のボクの夢は、忍者になることだった。

 

当時の漫画雑誌には、必ず「忍者になる方法」といったような修行法が載っていた。

まず、屋根の上までぱっと飛び上がる跳躍術の訓練は、大麻を植えて毎朝飛び越えるようにすること。

麻は成長が早いので、跳躍力も飛躍的に身につく。と書いてあった。

ボクは麻を植えたのだけど、乾燥した葉っぱがマリファナだというので、警察が全部没収していった。

朝起きてきて、麻が消えた庭を見たボクの衝撃を想像してくれ~

しくしく泣いていたら、近所の女の子に浅はかね~と笑われた。

そんなわけで、ボクのオリンピック出場の夢は消えたのだ。

 

忍者は風のように速く走る。

速く走る訓練は、10mくらいの布を頭に巻きつけ、先が地面に触れないように走ることだと教わった。

布の替わりに、オヤジの帯を頭に巻いて走った。

当然、ひらひら舞い上がることはなく、ずるずる引きずったのでボロボロになった。

オヤジが大切にしていた高価な帯だったらしく、思い切り怒られて「お前のようなバカ息子は勘当だ~」と家を叩きだされた。

ボクが「家なき子」になったのはそういう理由からだ。

のちに誰かが「家なき子」という童話を書いて儲けたらしいが、ボクのところに印税は入ってこなかった。

 

忍者は鍋蓋のようなものを履いて、水の上をすいすい~逃げる。

この術の訓練は、右の足が沈む前に左の足を前に出し、左の足が沈む前に右の足を前に出す~といったように交互に素早く左右の足を出し入れすればよいと書いてあった。

緻密な論理構成に感激したボクは、鍋蓋を足にくくりつけて近所の海で訓練した。

ずぶずぶと沈んで、溺れる寸前に助けられた。

どの訓練も上手くいかなかったので、忍者になる夢が挫折した。

 

 

中学に入る直前、ボクはビートルズなるものを知った。

たちまち洋楽に夢中になったので、ビートルズのようなスターになりたくて、ギターを買った。

ギターが弾けないとスターになれない、と信じていたからだ。

3日もたたずにボクは諦めた。

とてもじゃないが、鉄の爪フリッツ・フォン・エリックのように、片手でスター林檎を握りつぶせるほど握力が強くないと分かったからだ。

2度目の挫折だ。

悪いことに坐骨神経痛になったらしい。

動けなくなったのでしばらく休学してから通学した。

と、教室へ入るとボクの座席がないのだ。

休んでる間に転校生に席を奪われたらしいのだ。

こうして2度目の放浪生活に入った。

 

幸いなことに、図書館が放浪生活者受け入れ施設も兼ねていたので、好きなだけ読書三昧に耽った。

たまたま手にした「中央アジア史」という本で、ボクは初めて絹の道(シルク・ロード)のこと、西域のことを知った。

以来、現在に至るまでボクの西域熱は冷めない。

だから高校時代は西域専門の学者になる予定だった。

それなのに大学受験のとき、歯の根が合わないほど寒い日だったので、史学科じゃなく歯学科を受けてしまったのだ。

師は愕 然として皺を震わせ、「お前のようなバカには学問をやる資格がない。出て行け~」と大学からも追い出されてしまった。

天国よいとこ~♪ イチドはおいで~♪ 酒は美味いし姉ちゃんは綺麗だ~♪

と、鼻歌まじりにボクは門から紋付はかまで出て行ったのだった。

 

80年、NHKが「シルク・ロード」を放映したときはTVにかじりついて観ていた。

そのとき使われなかったフィルムが番外編として、現在、毎週水曜日の午後6時から放映中だ。

1昨日はタリム盆地のオアシスのウィグル人の暮らしを放映していた。

驚いたことには、大五郎カットにそっくりの幼児が映っていたのだ。

子連れ狼」のルーツは西域かも知れず、もしそうなら、面白いなあ~~

 

 

 

 

 

 

トルコ系のウィグル人が登場したのは比較的新しく、9世紀になってからだ。

中国人が西域の地理を知ったのは前漢武帝の時代、張騫(ちょうけん)の功に拠る。

紀元前120~130年ごろだと思えばいい。

そのころ、この地にはいくつものオアシス国家があり、住民はほとんどがアーリア系だ。

イチバン有名なのが「楼蘭」。

 

 

 

 

 

 

 

忍者といえばこのアルバムジャケ。

まだ真面目な音楽ブログを書いていた頃ブロ友さんから教わり、一発で飛びついたバンドだ。

 

 

 

2011年の記事の再録だけど、日本では相変わらず知名度が低いと思うので、向こうのマニア記事をまとめた紹介です。

 

日本では全く無名らしいが、めちゃくちゃかっこいい。
アメリカでは評価がうなぎのぼりのようで、ネットでも多数の情報源にアクセスできる。
wikipedia の記事は参考にならないのでマニアの記事にアクセスした方がいいです)
 

75年から91年まで活動していたインディーバンドで、拠点はワシントンDC。
80年代前半の映像だと思うが、まずはこのライヴをどうぞ。

 

The Brain That Refused To Die

 

 

日本のインディ・シーンでも見られたようなライヴで、懐かしい~と感じる人も多いはずだ。
(ボクは80年代の実際のインディ・シーンには立ち会ってないので、また聞きでそう思うだけです・・苦笑)
この映像は音が悪いのが難点だけど、雰囲気はばっちり伝わってくる。
いまならガレージ・サーフとでも名づけたいサウンドだ。

 

映像で仮面をかぶっていた Kim Kane というギタリストと、もうひとりのギタリスト Marshsll Keith が中心で、76年に最初のEP Hot And Cool をリリースしている。
Uでも2曲投稿されていて聴くことができるので興味を抱いた方は是非お聴きください。

 

ボクがびっくりしたのは、この時代のメインストリームロックに背を向けていることではなく(そんなことは当たり前)、その背の向け方だ。
ピストルズラモーンズとほぼ同時期に登場しながら、パンクに向かわず、独自の方向を向いている。
ニューロック以前のサーフ・ミュージックやビート・ミュージックをルーツにしていることで、こんなガレージ・サウンドが市民権を得るまでには、それから長い年月を必要としたのだ。

ヤードバーズの Psyco Daisies をカヴァー(それもほぼ原曲どおりに)しているなんて、この76年当時考えられもしないことだ。
 

初期のバンドのヴォーカルは Martha Hull という女性で、78年から Mark Noone という男性に代わっているが、この2人、声がよく似ている。

 

78年までに3枚のEPを出していて、82年にドイツの Line レコードが、その3枚のEP盤と2枚のシングル、未発表の1曲を1枚のLPに収めた Here To Stay というアルバムをリリース。ヨーロッパのアバンギャルドなロックファンの知るところとなった。
ライン・レコードといえば、60年代ブリテッィシュ・ビートのリイシューに力を入れていたフォノグラム傘下のレーベルで、白い盤面が特徴。ボクも随分お世話になったのだが、このジャケは一度も見かけたことがなかった。
残念だ。
日本人なので、ジャケを見ただけで買ったはずだ。

 

こんなジャケです。

 

gotta tell me why

 

 

オリジナルなのかカヴァーなのか分からないが(マーク・ヌーンが書いたと教わったので追加しておく)、名曲だ。
この数日、毎日聴いているが、ちっとも飽きないどころか何度でも聴きたくなる。
 
ワシントンDCで熱狂的なファンを獲得していた彼らが全米に知られるようになったのは83年のことだそうで、When I Go To The Beach の自主制作ヴィデオクリップがMTVで評価され、MTVをはじめ各局で流れるようになったためらしい。

 

このヴィディオもあったので一応貼り付けておくが、ポップすぎて好きではない。
多分彼らの作品の中でも数少ないポップ・ミュージックだと思う。

 

 

以上3曲だけ聴くとガレージ・サーフ・バンドのような気がするが、そうではない。
彼らの音楽はもっと奥が深くて、83年のアルバム Cybernetic Dreams Of Pi はサイケがたっぷりしみこみ(Invisible People が聴けます)、85年の Up,Uh oh...No Breaks ではロカビリーファンのとりこみまではかっているそうだ(既発を録りなおしたアルバム)。

 

88年にフランスのレコード会社が、Fashionably Late というアルバムを出していて、これが日本でも発売されたらしい(既に廃盤)。
この88年夏にはフランスツアーを行い、その模様が Live At Last と名づけられて89年にフランスで発売されている。

 

帰国後、創立メンバーの Kim Kane が離脱。
他にも辞めるメンバーいたので、しばらく活動中止。
新メンバーで再出発したがうまく行かず、すぐ正式に解散している。

 

メンバーは個々に活動しているが、解散後も評価はうなぎのぼりなので、何度か再結成コンサートを開いている。
どの映像を見てもテンションが落ちておらず、日本にも是非来て欲しいバンドだ。
 
再結成なのか、活動後期の映像なのか分からないが、再度 Ya Gotta Tell Me Why のライヴ。
ゾクゾクするなあ~最高!!!

 

 

余談だが、この時代のワシントンDCの音楽シーンは独特だったのだろうか。
同じ頃、この地には Chuck Brown という黒人ミュージシャンがいて、ファンクをベースに古いジャズやブルースで味付けした Go-Go という独自の音楽スタイルを確立して活動していた。

 

1度記事を書いたことがあるので興味のある方は下記へ。