織田作之助「妖婦」「可能性の文学」初版本・・・The Zutons・・Who Killed
「妖婦」表紙と裏表紙。
目次。
奥付。昭和22年2月25日発行。定価40円。風雪社刊。
昭和22年1月に亡くった織田作の死後出版。
戦前から戦後にかけて、単行本未収録の作品を収めた短篇集。
このうち「漂流者」(昭和17年)が最も古く、「妖婦」(没後の3月「風雪」に掲載)がもっとも新しい。
織田作は庶民の世態を巧みに描いて登場してきた作家なので、最初の5編は欲得も色事も綯(な)い交ぜになった庶民の実相を描いた作品。
6番目の「鬼」は、デカダンと世間から指弾された織田作自身をモデルにした自虐的かつ諧謔的な作品。 8番目の「昨日、今日、明日」は、終戦前後の物語。
織田作は政治には関心がなかったので、直接権力を批判することはないが、当時の庶民の感覚はきちんと掬う。 赤紙で応召された庶民兵士に対し、職業軍人がどれだけ横暴に振舞っていたか、終戦の詔勅が下りるや、その職業軍人が軍需物資を掻っ攫って逃げていく様が点描される。 リアルタイムの人間が書いたものを信じるか、当時を体験していない人間の説く美しい軍隊だった~という妄想言辞のどちらを信じるかは勝手だ。 最後の「妖婦」。
モデルは阿部定で、水商売に入るまでの、つまり10代の彼女。 「世相」という作品のなかで、阿部定を書きたい、タイトルは「妖婦」だと述べていて、しかし、材料となるべき公判記録が手に入らないと嘆いていたら、7年後、ひょんなことから馴染みの天麩羅屋の主人が持っているのが分かり、借りて読むのだけど、小説にしたところで検閲ではねられるのがオチ。 そのまま天麩羅屋の主人に返したが、空襲でこの一帯が焼け、公判記録も消失してしまう。 よほど執着があったのだろう。
記憶と想像力でモノした1篇。 織田作といえば、志賀直哉を祀った日本の文壇への抵抗を宣言した書「可能性の文学」が有名。
小説の虚構性と偶然性の回復を説いたが、成功した作品を書く前に血を吐いて早逝した。
最後の作品となった「土曜夫人」にその片鱗を伺うのみだ。
昔解説したのでこれ以上は述べない。
「可能性の文学」初版表紙と裏表紙。
奥付。昭和22年8月30日発行。カホリ書房刊。定価55円。
さてさて、今日も音楽ネタは2008年の記事の転載。
04年にデビューしたばかりのこのグループ、ザ・ズートンズのことは娘に教わった。
子供に洋楽のことを教わる歳になろうとは・・・! ・・・・・・・・・ とてもいいのだ。 おじさんにも、若い人にもおすすめなのだ。 レトロな音を蘇らせたゾンビミュージックというらしい。 が、60年代の香りがプンプンというわけではない。 多分現在主流の音(どんな音なのかボクは知らない)からみれば、レトロな感じがするという程度なんだろうと思う。 しいてあげれば、どこかに60年代ポップスの香りがするくらいか。 最後の曲、12曲目の Moons And Horror Shows なんてニュー・ボードヴィル・バンドの「ウィンチェスターの鐘」のサウンドを髣髴させるといえばさせるという程度。 アコギ主体の聴きやすい独自サウンドだと思う。 リヴァプール出身ということなので、こんなポップな音作りが可能になったのかもしれない。 アルバム4曲目の Confusion がUチューブにあったのでどうぞ。
紅一点のアビィ・ハーディング嬢がアルト・サックスを吹いていて、うまいんだか下手糞なんだか、「ヘ」、という音を延々と演っていて、最初は大笑いしてたんだけど、何度か聴くうちに病みつきになってしまった。 他人の「屁」は臭くて嫌だが、自分の「屁」なら愛しくなる。
臭ければ臭いほど、病み付きになるのは皆さん経験済みだろう。 ハーディング嬢のような美女の「屁」なら、他人の「屁」であっても愛しくなって当たり前だ。 対立する2つの概念、たとえば嫌いなものを愛しくなることをアウフ「屁」ーベンと言って、男女の恋愛を考察した「屁」ーゲルが唱えた。
日本語では「止揚」と訳す。 う~む・・男女の関係を見事に表した訳語で、これはすごい~~ 写真は04年のデビューCDで Sonny Music Europe 発売。
12曲入り。 現在2枚目がリリースされてるんだそうだ。 同じ記事をアメーバにも投稿しましました。
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